吉井宿狂歌カルた:か

鏑川(かぶらがわ)
火打ちの素材 揃ってる
蒲の穂・砂鉄・火打石あり

鏑川(流路延長58.8km 流域面積632平方km)は、群馬県と長野県の県境にある内山峠から流れ出し、一般国道254号と並行して東へ流れ、高崎市南部で烏川に合流しています。 西牧川(鏑川)と南牧川とが合流する下仁田町では、3段の河岸段丘が発達し、ここでは狭い河岸段丘面と山麓斜面の段々畑を利用してコンニャクが栽培されています。
ここの上流は秩父古生層の最北端となり6000万年前から8000万年前の海底が隆起しそれらが侵食され、見事な地質が複雑にいる組んでいます。特に下仁田町は地質学上も貴重な研究材料の宝庫とされ、町も自ら観光資源として「下仁田ジオパーク」として打ち出している。
江戸時代末期下仁田宿の奥の「御場山」で玉瑞(ぎょくずい)の採掘願いが江戸幕府に出されたが、鉱脈が薄いため、調査の段階で商業ベースに乗せるまで至らないと判断され、断念された。
また鉄に関しては、鉄鉱石を原料とする近代的製鉄が行われたのが中小坂製鉄所です。良質な磁鉄鉱と周囲から得られる豊富な木炭を燃料として,明治期に入ると本格的な操業が行われました。
<幕末>
・幕末の弘化嘉永頃から採掘が始まった。
・水戸藩では安政元年(1854)に反射炉を築造し、原料鉄として中小坂の鉄鉱石が運ばれた。
・元治元年(1864)、小栗上野介は中小坂に溶鉱炉を建造する建議を行った。幕府から武田斐三郎、山崎代之進らが派遣されて検分の結果、「ここには岩鉄が露出、品位は良好、同所へ溶鉱炉を建造」と、報告している。

  中小坂製鉄所
治11年溶鉱炉があったことがよくわかる
現在の風景
対岸から見ると、左の写真と対比できる

<明治以後>
・民間経営の時代・・・明治3年(1870)から本格的に採掘操業する者が現われ、明治7年に三条家の家令丹羽正庸は由利公正、三浦安らの経営参加を得、英人技師を雇って高炉、蒸気機関、熱風炉などを完成、スウェーデン人技師の技術指導で、トロッコによる水平移動により高炉炉頂へ運ぶ方式が取られた。
・わが国最初の蒸気機関による熱風送風による木炭高炉の操業、として唯一最大の製鉄所であった。 また高炉のほかに錬鉄炉、裁鉄、鍛鉄、銑鉄鋳造設備もそなえ、銑鋼一貫作業の形態をとっていたことも、わが国の製鉄史上特筆すべきことであった。
・しかし採算がとれず人手に渡り、明治9年、由利公正が引き継いだが、輸入製品との価格競争があってやはり収支採算が取れず、明治11年官営となる。
・政府経営の時代・・・明治11年官営製鉄所となったのちもやはり採算が取れない。高炉の耐火煉瓦が溶解、破損を繰り返ししばしば作業中断という状態であった。操業・故障を繰り返して14年4月まで約1年9ヶ月に操業日数合計250日、銑鉄合計85トンだった。
・明治15年、ついに廃業が決定。再び民間所有となり、経営者が何人か交替するも採算が取れず、明治41年に生産中止、大正7年に設備がすべて撤去された。
・昭和10年代に再び採掘が行われたが、戦争終結で閉鎖となった。
砂鉄は鏑川下流の藤岡あたりでも今でも取れる。
蒲の穂は湿地帯に生える植物なので、管理されていない水田のあとや沼地などで生息しています。いまでも高崎から吉井へ抜ける山道ではかなりの蒲が生息しています。
そのようなことで、このエリアは火花式着火方の全ての条件が揃っていました。
一部、鉄は西から水運を使って利根川から烏川とのぼり倉賀野宿で荷物を降ろしたという学説もありますが、一方で関所がきつくそんな簡単でないはずという見解もあります。
火打ち石の取れる産地というのもあります。常陸国の(茨城県)の山方町の火打ち石は有名で江戸へかなりの量が出荷されていたことが、各種文献や出土品で確認されています。

当時はわざわざ採掘していましたが、この鏑川流域では、普通に転がっていたのです。そこが大きな違いと思われます

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