野宿の匠

火打金の出現

今から約2000年前の弥生時代に大陸から鉄の製品が伝わってきました。
発掘出土資料から、火打金の使用は古墳時代後期(7世紀頃)に発見さています。
群馬県高崎市吉井町で火打金が確実に使用され始めたのは、平安時代(9世紀)に入ってからです。
形は横長三角形の山型です。

江戸時代以降の火打金

江戸時代に入ると、機能別に火打金の種類が増加します。
一つはカスガイ形と呼ばれるタイプのもので、木板に鉄の突出した部分を打ちつけた火打金です。
これは蒸し炭(消し炭)の入る火打箱と一緒に一般家庭で使用されました。
上の写真は「あかりの資料館」の実物です。

他に短冊形と呼ばれる柄の付かない火打金が出現しました。
これは用途に応じて大中小の種類があります。
また前代からある山型には、三角の裾部を細くねじり上げて頂部で結んだネジリ形と呼ばれるタイプが新たに出現します。
短冊形やネジリ形は2~3cmの小型品が多く、 道中の旅人が持ち歩く際の携帯用火打金として使用されていました。

下の写真は、150年前の吉井本家のネジリ型火打金で、僕のコレクションです。
火打金には鏨(たがね)で「本吉井」の文字が刻まれています。

江戸時代の火打金にはカスガイの柄部に焼印や鋼部に鏨銘(たがねめい)を入れたものが多く、これから生産地を特定できます。
中でも「上州吉井」の銘が圧倒的に多く、群馬県高崎市吉井町が火打金の特産地であったことが確認できます。

吉井宿と火打金

吉井町の中央を東西に走行する国道254号線は別名「姫街道(ひめかいどう)」と呼ばれ、江戸時代には埼玉県本庄から中仙道と分かれる脇往還(わきおうかん=裏街道) として栄えました。
取締りの厳しい中仙道の碓氷峠の関所を避け信州へ向かう旅人や商人、善光寺詣りに行く一般の人々に多く利用されました。

姫街道を利用する人々が「吉井宿」で道中土産として「火打金」を買い求めました。
火打金が特産物として有名になった吉井宿は、『西の明珍(京都)、東の吉井』と呼ばれるほど江戸で評判となり、吉井宿は市場として賑わいをみせ全国にその名を誇っていました。

なお吉井の火打金の始まりは、江戸時代初頭に武田信玄の配下の子孫「近江守助直」という刀鍛冶人が火打鎌を作ったことだと言われてい ます。

その流れを受け継ぐものが町内に多くうまれました。
福島家、岡田家、横田家以外にも火打金職人や鍛冶職人、鍬柄職人らが数十人いたことがわかっています。
特に中野屋一族の製品はブランド品で、全国各地で人気を博しました。
中野屋一族の火打金の鋼には「上州吉井中野屋孫三郎」「上州吉井中野屋女作一」などと刻まれ、木柄の部分に 「吉井本家請合」などの焼印をする特徴がありました。
しかし明治時代に入るとマッチの国産化により火打金の消費が落ち込み、明治30年頃を境に製造が中止されました。

江戸時代は火打金職人が手造りで一つひとつ「鍛造」、「焼き入れ」てつくっていましたが、今は野鍛治の職人はいても火打金職人はいないためプレスで切り抜き加工をしています。
しかし原料となる鉄だけは、今でも炭素鋼の鋼ではなく、軟鉄の浸炭で製鉄されています。

私は中野家最後の鍛冶職人のお弟子さんから刃物の作り方を教えていただきました。その中野家400年の技術で、ついに完成させたのが野宿の匠の鍛造火打ち鎌。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください